2015年9月2日水曜日

大阪の都市計画 ピンチをチャンスに

三菱地所はJR東京駅前に高さ約390メートルの
超高層ビル(61階建て)を建設すると発表しました。
あべのハルカスが「日本一高い高層ビル」の称号
を手に入れ、大阪の自慢となった矢先だけに、
関西ローカルのニュースでも取り上げられるほどの
できごとでした。

「それだったら、それより高いビルを建てればいい」
と言う声があがる反面、「あべのハルカスですら、
予想より売上げが上がらないのに、建てても仕方
がない」と反論され怯んでしまうところでしょう。
しかし私はここでこそ、大阪市都市開発局と民間
がタッグを組む時だと思います。

具体的には1970年代に相次いで開業した大阪
駅前第1ビル第2ビル第3ピル第4ビルをひとつに
まとめて、大阪駅北側の貨物駅跡地に駅と直結
した大阪駅前ビルを建築するのです。
単純に4つのビルのフロア数をたしただけでも
地上と地下で105フロアですが、現在駅前ビル
に入居しているテナントに同条件で移転して
もらう場合、それだけでは収益があがらないので
ホテルや新しく高層階に高額で入居してもらう
テナントを募り、地上120階地下6階くらいの
規模で高さ500メートルほどの高さの高層ビル
になります。

ビル西側には10階建ての付属ピーキングビル、
このビルと大阪駅ノースゲートビルのほぼ全部の
フロアを直結させ、新梅田スカイビルや、自家用車
で大阪駅に来た人は必ずこのビルを通り抜けていく
つくりにします。このフロアに現在の駅ビルの
下層階に入居する金券ショップなどの店舗を
主として配置、高層にはなりますが、大阪駅の
目の前であればむしろ条件はよくなります。

そしてこの高層ビル完成後、旧大阪駅前ビルは
4棟とも解体し、跡地の南側は国道2号線を拡張
して、梅田新道の交差点を介さずにそのまま
新御堂へと乗り入れる高架を2車線増やし、
北側は緑地公園にします。もちろんウメキタ
の高層ビルも敷地の2割程度は緑地です。

私の狙いはこの緑地公園にあります。
何度か発言しましたが、意外と東京に比べて
大阪は緑の面積が小さいのです。
北港や南港の新しい土地に緑地公園を造る
ことは簡単です。いかに大阪市にまんべんなく
緑地帯をつくっていくかが課題なのです。
第1期のウメキタ開発も、新梅田シティも
大阪ガーデンシティもビルとセットで緑地も
造られています。これを大阪駅の南側にも
実践するには大阪駅前ビルの移転が一番
だと思います。

2015年9月1日火曜日

同じ過ちを繰り返そうとする「橋下市長」

予てから述べている通り私は「大阪都構想」には
賛成していますが、強引な橋下氏の手法で、
これを推し進めることに懸念を抱いています。

大阪市を5つの特別区に区割りするにあたって
既得権益を考慮しない維新の会らしからぬ
偏った区割り案を決定したのも、橋下市長の
思惑が見え見えです。また松井知事をはじめ
脇を固める人々が橋下市長のブレーカー的
存在であればよいのですが、橋下氏にNOと
言える人がいないので、橋下市長に維新が
翻弄されているように見えることもあります。

住民投票を僅差で敗北したのち、自民党など
が提唱した「大阪戦略調整会議」が機能
しなかったため、ふたたび大阪都構想実現へ
舵をとる姿勢は正しい判断だと思います。
しかし「維新の党」の柿沢幹事長が党が推薦
していない議員を応援した問題を発端にして
「永田町の連中に政治を任せられるか。
大阪から政治をやる政党をつくりたい」と
突然新党構想をぶちまけるのはいかがな
ものかと思います。

弁護士出身の為、白黒つけたい闘争本能
のようなものが抑えられないのかも
しれませんが、「維新の党」の松野代表が
豆鉄砲を喰らった鳩のように記者会見する
様子はあまりにかわいそうです。
ひとりで政治は動かせません。特に今の
選挙制度では、少々の勢力を手に入れても
過半数の議席がとれないようなシステムに
なっていることは、橋下氏本人もわかって
いるはずです。
今、政界に敵をつくることは、もし新しい
維新勢力が与党の脅威になる頃に
大きな障害となることは目に見えています。

基本的に大阪維新の会が目指す政治は
間違っていないと思います。しかし手段を
誤ると正しいことも間違いになることを
先の住民投票で学んだはずです。
あの時の過ちを繰り返さないよう祈る
ばかりです。

2015年8月31日月曜日

僕の好きな音楽 「Mr.Children」

1990年代以降小田和正の音楽がメイン
とは言いましたが、数年に1枚のアルバム
のため、間が持たないのが現状です。
実はもうひとつ、ここ20年のお気に入り
があります。Mr.Childrenです。

1993年「CROSS ROAD」発売後、CDを
買ってよく聴いてはいたものの「よく聴く
アーチスト」のひとつに過ぎませんでした。
「おっ!」と思ったのは1995年リリース
「シーソーゲーム 〜勇敢な恋の歌〜」
でした。それまで強引に歌詞をメロディに
詰め込んでいたような楽曲が多かった
印象が、この曲ではじめてしっくりときた
ように感じました。ところが翌年発売された
次のシングル「名もなき詩」でふたたび
詰め込み感を感じて、少し引いて
しまいます。

気になる存在ではありながらミスチルを
本当に好きな音楽と位置づけるように
なったのは、恐らく桜井和寿が小脳梗塞から
復帰後の2003年「掌」からだと思います。
「掌」はダークな感じの曲で、最初はあまり
いいイメージではありませんでした。
しかし聴いているうちに好きだったアニメ
「新世紀エヴァンゲリオン」の世界観と
重なるところがあり、次第に魅かれて
いきます。翌年発売された「シフクノオト」
以降はアルバムすべて予約買いして
います。

私の一番好きな曲は「横断歩道を渡る人たち」
という曲です。最初は詩の詰め過ぎと思っていた
ミスチルも私の聴く耳が変わったのか、
桜井氏が進化したのか、あの曲を聞くと
昭和の懐かしささえ感じます。

このシリーズ最後に現在のハードです。

















最近は購入したCDをこちらに落として聴く
意外に、パソコンでも管理していますが
そのソフトも含めSONY製が続いています。
別にこだわりはないのですが・・・。

2015年8月30日日曜日

僕の好きな音楽 「小田和正」

オフコースから浜田省吾へと主軸が変わる
1980年代が過ぎ1990年前後になると
ラジオ離れが進むようになります。
様々な音楽を聴く機会が失われ、オリコンを
流し読みする程度へと生活が変わります。
ただCDは結構聴く機会が多く、渡辺美里、
TMネットワーク、大江千里、ドリカム、Bz、
谷村有美とたくさん買ってたくさん聴きました。

ちなみにこの頃のコンポはこんな感じです。






















で、結局この頃一番好きだったアーチストは
となると「小田和正」です。
オフコースは1989年にできて間もない
東京ドームでの公演を最後に解散します。
解散後、小田和正は1986年から始めた
ソロ活動を本格化し、1990年に解散後初の
ソロアルバム「Far East Cafe」をリリース
します。このアルバムの中の「time can wait」
が私の中の分岐点となる曲となります。
それまでは甘くせつない愛の唄を奏でて
歌う感じだったのですが、この曲から、夢や
希望といった恋愛以外のテーマにも広がって
いったのです。
一方1990年の湾岸戦争のあと浜田省吾が
リリースした「その永遠の一秒に」にはどんな
メッセージが込められているのだろうかと
期待していたのですが、このアルバム以降
ラブソングがメインという流れに転じます。

ここで主軸がふたたび小田和正へとシフト
していきます。さすがに最近は少し老けた
感じはありますが、自分らしさを主張しつつも
幅広く挑戦する小田氏の姿は見習うべき
ところがあります。

1991年、当時「前代未聞」と表現される
2週間での100万枚突破を成し遂げます。
前身のオフコースも含め、小田和正自身
オリコン1位の経験はなく、前年までは
1週間に10万枚売り上げることもあまり
なかったため、恐らく発売時は100万枚を
プレスしていたものと思われます。
その状況で1週間74万枚を売り上げた為
新曲にもかかわらずCDが店頭から消える
という現象が起こりました。
ドラマ主題歌「ラブストーリーは突然に」
の人気です。
このCDをお持ちの方はご存知のことと
思いますが、「Oh!Yeah!」が1曲目で
2曲目が「ラブストーリーは突然に」に
なっており、この辺は小田和正らしい
ところです。生命保険のCMソングの
「Oh!Yeah!」は有名ではないかも
しれませんが、今でも歴代CMソングの
売上1位のはずです。

最近わかってきたのは、小田和正は
偏屈そうで、大ヒットと呼べる曲も多くは
ありませんが、どんな曲が好まれるのか
理解しているということです。
2007年「こころ」2014年「愛になる」
の制作談話からそれがわかります。
ツボがわかっていながら、媚を売るような
ことをしないのも小田氏らしいところです。

2015年8月29日土曜日

僕の好きな音楽 「浜田省吾」

オフコースを好きになる前はとにかく、いろいろと
ラジオから音楽を吸収していました。
当時はJ-POPだけでなく洋楽も聴いていました。
ロッドスチュワート「アイムセクシー」
ジョンレノン「スターティングオーバー」
中でもビリージョエルの「素顔のままで」が一番
好きでした。英語の歌詞なのに、何を歌っている
のかが伝わってくるからです。後になって翻訳
された歌詞を見てびっくりしました。
音楽はことばが通じなくても通じ合える素敵な
ツールと感じつつも、この頃から「音楽は歌詞
も重要」と思うようになり、1982年頃からは
あまり聴かなくなります。

1970年代後半BCLラジオで音楽を楽しんで
いましたが、1980年になるとステレオラジカセ
へと移行します。それはPRESSMANがWALKMAN
へと進化したことから見れば、自然なことです。

SONY CFS-10 メタル365










1980年になるとレンタルレコードで毎日のように
レコードを借りて聴いていた時期もありました。
オフコース以外にも、アリス、ゴダイゴ、チューリップ、
サザンオールスターズ、山下達郎、矢沢永吉
佐野元春、松任谷由実など俗にいう「ニュー
ミュージック時代」全盛期です。
それによりハードもいっきにラジカセからシステム
コンポへと移行します。

SONY STR-S3R










写真はチューナとアンプが一体となっており、
これ以外に、カセットデッキとレコードプレーヤー
がありました。

このような環境の中、浜田省吾というアーチストを
好きになるきっかけは、1983年阪神タイガースの
安芸キャンプのテレビ番組からでした。選手の
インタビューの後ろで流れていた「マイホームタウン」
がなぜか心をたたいたのです。
「風を感じて」の頃FMでは聴いていました。
しかしその後ラジオを聴く頻度も減り、忘れかけて
いた頃にその曲に感動してアルバムを聴きました。

PROMISED LAND 〜約束の地





















「PROMISED LAND 〜約束の地」は曲だけで
なく歌詞も凄く衝撃的な曲ばかりで、歌詞が
重要と思い始めた頃だったこともあり、音楽
の深さを思い知らされました。特に最期の曲
「僕と彼女と週末に」は30年以上経過した今でも
「一番スケールの大きなラブソング」だと確信
しています。
しかし私にとって浜省(浜田省吾氏の略称)の
最大の魅力はラブソングではなく社会的な
音楽です。愛よりも夢を歌うのが私の中の
浜省であります。

アルバム「DOWN BY THE MAINSTREET」で
若者たちの気持ちをグッとさせた浜省は
「J-BOY」で私を含む多くの日本国民の
ハートをつかみます。リンダロンシュタットの
イッツソーイージー調のメロディーに重い歌詞を
ロックに歌い上げる今聞いても斬新な
「NEW STYLE WAR」で始まり安定する
社会の中の不安な若い世代を表現した
「J-BOY」までのあっという間の2枚組
アルバムで、後に対抗するように安全地帯が
リリースする3枚組とは歴然の差です。

これ以前の「Home Bound」「愛の世代の前に」
これ以降の「FATHER'S SON」「誰がために
鐘は鳴る」といったアルバムはまさに社会派
ミュージシャンとして斬新な音楽で満たされて
います。もし聴いたことがないのであれば
ぜひお薦めいたします。

ちょうどこの頃ブレークしようとしていた
ミュージシャンに尾崎豊がいます。
凄い感性の持ち主でで「15の夜」など今の
音楽に影響を残した素晴らしいミュージシャン
です。
好みかもしれませんが、浜省に浸った
私としては、浜省と比べると未熟さは否めず
早すぎた死には惜しむばかりです。

2015年8月28日金曜日

僕の好きな音楽 「オフコース」


今日からしばらく僕の好きな音楽について
を語ります。最初はオフコースです。

小学生の時、病気で入院しました。
当時は子供部屋5人の中で男子は私だけ
だったので、部屋に1台しかないテレビは
実質見ることはできません。
そんな入院生活を充実させてくれたのが
AIWAのラジカセでした。

同じ部屋の女の子から教えてもらったのが
大阪では朝日放送が日曜日朝9時から
放送していた「不二家歌謡ベスト10」でした。
ロイ・ジェームスという外国人が流暢な
日本語で45分間に今はやっている曲を
いっきに流すスタイルです。
ちなみに最初に聴いた放送の1位は
山口百恵の「冬の色」でした。

これをきっかけに朝日放送をよく聴くように
なり、20時の消灯後もまだテレビ化される
前の萩本欽一氏の「欽ドン」や「ヤンリク」
を聴くようになります。
この頃のヒット曲は今もかなり覚えています。
春以降は野球中継も聴くようになり、これが
きっかけで阪神タイガースのファンにも
なりました。

退院後もラジオにはお世話になりました。
その後のBCLブームにあわせて海外短波
放送を聴いて「ベリカード」なるものもよく
集めました。最初は朝日放送にチューニング
する時よく聞こえてきた「北京放送」を聴いて
いましたが、親に無理を言って高価な
SONY ICF-6800というラジオを買って
もらいました。

ICF-6800














しかしこの海外放送を聴く高性能なラジオが
私をあたたびJ-POPへと誘います。
見ての通りモノラルスピーカーなのですが、
当時の高級コンポーネントステレオに相応
する音質で、これでFM放送を聴くうちに
短波からFMへとシフトされていきました。

そのような生活を送っている時に出会った
1曲がオフコースの「秋の気配」です。

野球中継が雨天中止になると、マイナー
なミュージシャンの音楽を流す番組があり
たぶんその中の1曲として聴きました。
「出会い」といいながら最初はあまり印象
がなかったのです。ただ、どこか心の底
に残っていたのだと思います。その年の
冬の初めころ、体が弱く耐寒登山に参加
できず、学校で午前自習登校し、下校後
ラジオからもう一度聴いたときに「好き」
というよりも、自然と何度も何度も口ずさんで
しまうのでした。

秋の気配「オフコース」

















その後「愛を止めないで」「さよなら」と
オフコースは誰もが知る存在になります。
しかしながら、私がオフコースを好きに
なったのはそのあとの「Yes-No」という
曲がトリガーとなります。

「Yes-No」もラジオで聴いている時は
いい曲とは思っていましたが、学内の
合唱コンクールで歌うため、レコードを
買って魅せられました。子供ながらに
Yes-Noという歌詞がないのになぜ
「Yes-No」なのか、イントロがムード
あるフリューゲルホルンから急変して
エレキギターで激しく奏でるのかなど
が理解でき、音楽の表現の面白さを
知らされる1曲でした。

その後発売された「We are」を購入後
過去のアルバムをレンタルして全曲
聞き、以降のアルバムはすべて持って
います。

2015年8月27日木曜日

サッカースタジアムのあるべき姿



大阪万博公園の中にあったエキスポランドが
不祥事から閉園して、跡地にはショッピング
モールとサッカースタジアムが建設されてい
ます。
サッカースタジアムはJリーグのガンバ大阪
の本拠地としてこの秋完成予定です。
建築費は広島のマツダスタジアムのように
主に寄付で賄われ、収容人員は4万人との
ことです。

詳細はオープン前なので明らかではないの
ですが、サッカー専用スタジアムのため
グランドの周囲にトラックなどがなく、ベンチ
もスタンドと一体化して、他のサッカーを
している競技場と比べると、明かに臨場感
がある構造です。

ただ私が気になるのは、客席のピッチと
室内席です。
これからの高齢化社会の中で、スポーツ
観戦も高齢者に配慮したものが必用です。
昭和末期からプロ野球のホームグランドの
スタジアムは1席あたりのスペースが拡大
して、車椅子スペースも設け、客席自体も
禁煙化して誰にでも親しみやすくなってきて
います。甲子園球場が50年前は約6万人
とされた収容人員が現在47808席なのは
そのあらわれです。
しかし夏の高校野球だけでなくプロ野球も
暑い中密集して長時間観戦することは
高齢者にとって楽しめるとは言えません。

まして現在サッカーは野球よりもさらに
年齢層が低く、高齢者が行こうという気に
ならないところであります。
野球場よりさらに客席のピッチを広げて
通路も多めに設け、楽に楽しめる席を
応援席とは別に設けるべきです。
と同時に、VIP席とは別に静かに、空調の
効いた快適なスペースで楽しめる空間も
用意して、高齢者やサッカーに詳しくない
人たちにも、「行ってみようかな」と思わせる
施設にするることが、収益に繋がり、
ファン層の拡大にもなると思います。